年齢と経験を重ねて、私は1つだけ良かったことがあると思っています。
それは、理解できないことが起きた際に、いきなり感情的にならずに
少し距離を離して、ものを多角的に見ることができるようになったことです。
おかしなことが起きる背景には、何かしら理由がある。
そんなことを、経験で学びました。
昨日、今日と連続して、リョウともめてしまいました。
リョウのわけのわからない行動に、私もとうとう手を焼いてしまって
会話を控えようと思ってしまったくらいです。
正直、リョウの理不尽さに辟易してしまいました。
どうして、こんなことを私がされなくてはならないのだろう?
いったい私が、何をしたというのだろう?
そんなに私が、酷いことをしたのだろうか、言ったのだろうか?
ふと・・自分の考えの主語が、私になっていることに気がつきました。
自分中心の思考。それは全て、主語が私になるのです。
リョウと私、お互いの生活の中で、欠くことが出来ないくらい密接に結びついていて
こんな会話が途絶する状態になってしまうのは、非常に辛いことです。
リョウは平気なのだろうか?
こんな状態にして、もっと辛くないのだろうか?
そもそも、どうして好き好んでこんな辛い状態に
リョウは、自分から持っていこうとするのだろうか?
主語をリョウにしたとたんに、何故?何故?の嵐になっていきます。
リョウは何故、この時期にこんなことを??
私はリョウのことを、完全にわかっているわけではありません。
むしろ、わからないことが圧倒的に多いことをわかっています。
ただ・・・彼女の苛立ちは、私にも少し経験があるように思えるのです。
人間の成長の過程で、特に自我の目覚めの中で、必ず来る壁は
思った通りに世の中がすすまないことを、痛感することです。
今、一歩ずつ社会的な成長を遂げているリョウにとって
今現在の、リョウの置かれている立場自体が
もっともうまくいかないものなのかもしれません。
そして、そういうことに対する自分の気持ちを
もてあましてしまっているのではないだろうか?
・・・・・・・・・・・・
そこまで思いついたときに私は、自分の気持ちが急に落ち着いていくのがわかりました。
解決は、自分で探すしかないと思います。
私が出来ることは、ほとんどありません。
この日記を書き始めたときと全く同じように、リョウと一緒に歩いてあげて
リョウが転んだら、手を差し伸べてあげるだけです。
私はそう決めたのです。
そして、今回もやはり私はじっと、リョウの側で
リョウが自分で立ち上がってくるのを見守って、杖の代わりになってあげようと決心しました。
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